ナラティブ(語り)

朝日新聞名文記者で知られる、近藤康太郎さんの著書を2冊読んだ。

 三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾

 百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術

巻末の著者紹介には、作家/評論家/百姓/猟師とある。

経歴のユニークさと、新聞のコラムの面白さに魅かれ、昨秋は講演会にも行った。

講演会は「田舎暮らしトーク」の他に「文章塾」もあり、応募された作文を鮮やかに公開添削していく。

素人文章に容赦なく切り込む本気さに、愛を感じる。

先の二冊は実用的な指南書でありながら、著者のナラティブが味わえる読み物でもあった。

「三行で撃つ」は文章技術の伝授にとどまらず、文を書くことの覚悟を思い起こさせる。

書くとは、人にとってどのような行為なのか。

手紙、ブログ、サイトの文言、何かしらの一文を書いていて、何か違うと思う。

ここにいる自分とのずれを何とか埋めようと頭を悩ます。

よりぴったりする表現を探して、言葉と自分との間を行ったり来たりする。

その往復で、だんだんとの偽りのない自分が表れてくる。

書くとは素の自分を差し出すことか。

「言葉は、自分の考え、感情を表す道具ではない。むしろ言葉が、自分の思想や感情を生起させる。順番が逆なのだ。」(三行で撃つ 第4章より引用)

本当にそうだ。

頭の中にすでにあるものを、言葉という道具で表現するのではない。

言葉に導かれるように、考えや感情が動き始め、縦横無尽かつ創造的に広がっていく。

文が自分だけのナラティブ(語り)となって動き出す。

それは他者に届き、自らを整える。

語ること、書くことの真髄はそこにあるのだと思う。

AIに文を作成させるという話をよく聞くようになった。

大切なものを放棄しているように思えてならない。

一つの物事について自分がどう切り取り、反応し、広げ、自分を通してどう表現するか。

たどたどしくていい。

それが自分を通したものならば、誰にも真似できないナラティブとなる。